Prockop先生との思い出

今年(2024年)の1月22日、私の恩師であるDarwin J Prockop教授(以下 Prockop先生)が天に召された。

コラーゲンの生合成、代謝、遺伝子、先天性疾患の分野の世界的権威であった。同時に、現在、再生医療の分野で注目されている間葉系幹細胞の発見者の一人でもあった。

世が世であれば、ノーベル賞を2度受賞しても不思議ではない方である。

アキレス腱を断裂しても翌週には車椅子で職場復帰され、奥様が亡くなっても翌週には通常業務に戻られていた。

そして、94歳まで現役を貫かれた、まさに医学・生命科学界の"Living Legend"であった。

2008年、初めてProckop先生にお会いした際、78歳という年齢を感じさせないアグレッシブさで、「Welcome to New Orleans!」と握手していただいた。

その際、Prockop先生は私の英語力を懸念し、「大学が無料で開催している英会話教室がある。レベルに応じてクラス分けもされている。参加してみたらどうだ?」と提案して下さった。

不遜にも私は、「私は語学留学に来たのではありません。そんな時間があれば実験します。」とお答えした。

Prockop先生は「そうか。」とだけ答えたが、先生の目には、私はさぞ「生意気な小僧っ子」に映ったに違いない。

Prockop先生の懸念は的中し、渡米当初、私はNative独特の英語の言い回しに悪戦苦闘した。

Discussionの際、Prockop先生は、私が会話を聞き取れていないと判断すると、嫌な顔一つせず即座に筆談に切り替えて下さった。

「田舎の学問より京の昼寝」の例えではないが、知らず知らずのうちに耳が慣れてくるのだろう。徐々に英語でのやり取りも上達し、筆談することもなくなった。

また、研究所内のセミナーや、同僚とのDiscussionの際にも、躊躇なく発言できるようになった。

Prockop先生はそんな私を見て、「Masahiko,お前もアメリカ人になったな。」と褒めて下さった。

私は私で、「やっとProckop研の一員になれたのだな。」と感慨もひとしおであった。

Prockop先生は、研究所員の日常の生活にも常に気を配っておられた。

私が「(渡米して5か月後)最近やっと車を購入しました。」と話すと、「今まで車なしでどうやって生活していたんだ!?」と目を丸くされた。

「それで車は何を購入したんだ?」との問いに、「FordのTaurusです。」と答えると、「アメ車を買った日本人はお前が初めてだ。はっはっは。」と爆笑された。

そんな気さくな人柄も、Prockop先生の魅力の一つであった気がする。

2014年7月訪問

Prockop先生は自分の研究室から出る論文に関しては、Reviewerよりも厳しい視点から常にデータをチェックされていた。

「このデータのみでその結論を導き出せるか?」「そのデータに再現性はあるのか?」等々、データや論理体系の不備を厳しく指摘された。

しかし最後は、「この実験を着想したのは面白い。」等々、無理やりにでも褒める部分を見つけて褒めて下さった。

ラボメンバーは皆、「次回のDiscussionまでにはProckop先生を納得させるデータを出そう。」とモチベーションを高めることができた。

そんなProckop研には、一種の「研究者を醸成する雰囲気」のようなものがあった気がする。

その証左として、Prockop先生の元からは数多くのPI(Principle Investigator;研究室主宰者)が巣立ち、世界中で活躍している。

私は家庭の事情から、当初の滞在予定を切り上げて帰国することとなった。

手がけていた研究テーマを途中で放棄しての帰国だった。

Prockop先生は、「家庭の事情なら仕方ないな。」と了承して下さった。

そして、私の研究が中断しないよう、帰国後も間葉系幹細胞や試薬を度々日本へ送って下さった。

そのおかげで、私は帰国後も実験を継続することができた。

データも蓄積し、いよいよ論文としてまとめる段階となった時、私は必ず自費で渡米し、Prockop先生へ研究成果を報告した。

不義理をした私なりの「落とし前」のつけ方であった。

2015年12月訪問

Prockop先生は毎回、研究所主催のセミナーという形で私が発表する場を設けて下さった。

そして、研究所員へコメントを促しつつ、「この実験を加えた方がいい」「このデータは外した方がいい」等々、適切なアドバイスを下さった。

※後日、人づてに聞いたところ、Prockop先生は私の急な帰国を気にされていなかったそうである。

余談だが、Prockop先生はその都度、私にセミナー講師として多額の謝礼を下さった。

私は小切手を一旦丁重に受け取ったのち、「Prockop研の発展のために使っていただければ嬉しいです。」とそのままお返しした。

Prockop先生はにこやかに、「お前ならそう言うと思ったよ。」と仰った。

そんなやり取りも、今となっては懐かしい思い出である。

また、Prockop先生は私が渡米する度に、「困っていることはないか?」「次はどんなテーマを考えているんだ?」等々、自分の元を巣立っていった私を気にかけて下さった。

その時の「孫を見つめる祖父」のような優しい眼差しを私は今も忘れられない。

天国のProckop先生の目には、今の私はまだまだ駆け出しの若造として映ることだろう。

「最近老眼で・・・。」「体力が落ちてきて・・・。」なんて言っていたら、天国のProckop先生から叱責が聞こえてきそうである。「What a joke, Masahiko!」と。

Prockop先生、長い間お疲れ様でした。(せめて天国では)ゆっくりお休み下さい。