私を変えた言葉13

なったき

この言葉を聞いてピンとくる方は、かなりnativeな「盛岡弁スピーカー」だと思う。

私の生まれ育った岩手県盛岡市では、ちょっと調子に乗った「勘違い人間」を「なったきしてる」とか「なったきすんな」といって揶揄する。

文字通り、ひとかどの人物に「成った」「気」になっているというのが語源のようだ。

ちなみに、この「なったき」した人は、大抵は早晩に鼻っ柱を折られるという末路をたどる。

「私を変えた言葉12」で紹介した通り、私は大学時代、お世辞にも優秀な学生とはいえなかった。

(少なくとも私の周囲の)博士課程へ進学する学生は、非常に優秀で、大学での勉強に飽き足りず、さらに高度な学問を追求したいという、高い志をもったタイプであった。

しかし私の場合、さっぱり勉強もせず、かといって就職する気も起きず、「自分はできる」という根拠のない思い込みだけで博士課程へ進学した。

今考えると恥ずかしいが、まさに「なったき」していた。

※(これも私見だが)博士課程に進むことは、時間的・経済的ロスに加え、就職の選択肢をかなり狭めることになるため、在学中に悟りを開いた学生は進学しない(気がする)。

そしてご多分に漏れず、博士課程に進学後の私は、周囲とのレベルの差に愕然とし、(バカにされながら)もがき続けた。

博士課程修了後も、行く先々で(根拠のない)自信を挫かれ、思い悩む日々が続いた(今もだが・・・)。

研究者人生も折り返し地点に差し掛かり、今後のビジョンを思い描くとともに、今までの自分を振り返ることがある。

「果たして、これまでの自分の研究に対する気構えは正しかったのだろうか?」と。

そんな私がふと目にしたのが、吉田兼好の随筆「徒然草」の第150段であった。ご存知の方も多いと思うが、ご紹介したい。

原文)能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。

未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるゝにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、そ骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。

訳)これから芸事を身につけようとする人が、「下手なうちは、人に見られたくない。陰で練習して上達してから披露するのが格好良い」など云うが、こんな事を言う人が芸事を身につけることはない。

まだ芸事が下手なうちから上級者に交じり、バカにされ笑い者になっても恥じることなく、平常心で頑張る人は、才能や素質がなくても、芸の道を踏み外すことも無く、我流にもならず、時を経て、訓練を舐めている者よりも達人になり、人間性も向上し、努力が報われ、達人の称号が与えられるのである。

これを読んで、私は「我が意を得たり」とばかりにピシャリと膝を打った。

まずは、恥を恐れずに「なったき」することが、思い描く自分に「なっていく」第一歩なのだと確信した。

才能も能力もない私が、何とかここまでやってこられたのは、私が「なったき」していたことが一因だと思う(人間性が向上したかは別だが・・・)。

私はこれからも「なったき」していきたいと思う。

そして、(私を含めた)世の中のすべての「なったき」した人々に幸多からんことを祈る次第である。