『自分が歩んできた過去を振り返ってみると、何とたくさんのすばらしい、一生に一度の出会いがあることか』 井上靖
2014年10月に、生理学講座第2教室の教授として着任致しました。私の現在の研究は、感覚や運動の情報が脳内のニューロンでどのように処理されているかについてですが、この研究を始めたきっかけは、2000年にサイエンス誌に掲載された、一遍の総説に出会ったことです。”Diversity and dynamics of dendritic signaling”というタイトルのこの総説は、神経細胞の樹状突起でどのような情報処理がなされているかについて、研究の端緒から当時の最新知見までを、この研究分野を開拓した3人の若手研究者が解説したものでした(Science, 290, 739-744)。当時、生物物理学の研究室で、骨格筋ミオシンの運動メカニズムを1分子計測で研究していた私は、一つ一つの分子の挙動を調べてそのメカニズムを探るという、究極の要素還元主義的な研究に、「これは生物の研究なんだろうか?」という疑問を抱きつつあり、ニューロンの入出力関係からその情報処理メカニズムを明らかにしようとする、高次の生体システムの研究に強く惹かれました。その後も、目の前の実験に追われながらもその思いを持ち続け、研究が一段落したこと(=ポスドクの任期終了)を契機に思い切って飛び込んでみることにしました。先の総説の著者の1人、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンのMichael Häusser博士(現教授)に、履歴書をつけて留学したい旨をメールで送ったところ、快く受け入れてくださいました。今振り返って考えてみても、全く面識のない、神経科学とは無縁の研究をしていた者をよく受け入れてくれたものだと、その寛容さ、器量には畏敬の念を覚えます。全く経験のない分野の研究をゼロから始めることや、初めての海外生活でアジア人が1人もいない研究室に行くということもあり、多少の不安はありました。しかし、いざ渡英してみると、そこは想像していたものとは全く異なる別世界が待っていました。医学、生物学、物理学、情報科学など様々なバックグラウンドを持ち、国籍も人種も多種多様なメンバーで構成された研究室に、最初から全く違和感なく溶け込むことができました。ボスのMikeが30代半ばと若かったこともあり、大抵の日本の研究室にある、教授―スタッフ―ポスドク―学生のような階層構造が全く存在せず、全員が平等で学生がMikeに激しく食って掛かることもしばしばで(これには軽く違和感を覚えましたが)、非常にアクティブな研究室でした。Mikeをはじめ多くのメンバーは、研究仲間、競争相手として、帰国から10年経った今でも頻繁に連絡を取り合う大切な友人です。
このような環境で始めた新しい研究は、毎日がとても刺激的で、3年間の留学期間はあっという間に過ぎていきました。当初は慣れないことが多く、苦労もしましたが、結果として、共著を含めて5編の論文として成果をまとめることができ、大変充実した研究生活を送ることができました(私生活でも家族と様々な国々を旅行して見聞を広めることができたので、ヨーロッパは留学先としておすすめです)。留学時の人との出会いやその頃始めた研究が、今の私の研究の礎となっており、まさにターニングポイントとなっています。まだまだ経験の少ない身ではありますが、私から若い大学院生や学部生の皆さんへ、言えることがあるとしたら、『一期一会』という言葉がある通り、その時々の出会いを大切にすることと、殻に閉じこもらず常に新しいことへの挑戦を続けて欲しいということです。かく言う私も、これからこの山梨で皆さんと一緒にまだまだ新しい研究へのチャレンジを続けていきたいと思っています。
Häusser博士と留学先の研究室で(2005年)