私の専門は理論物理学(カオス)なので、医学や工学などの「実学」の対極に位置しますが、若い人たちに私の経験が少しでも参考になればと思い筆をとることにします。ただ、なんといってもこれから書くのは20年以上前のことです。記憶にあいまいな点が有るかも知れません。また、人は過去を振り返るとき、「予定調和的」に脚色する傾向があります。そうならないよう自戒しながら事実に忠実に書き進めるつもりです。
1 よい教師は心に火をつける
小学校時代、覚えているのは、「水面に垂直に入射した光線が水中にどのように屈折するか」という問題を自分の頭で考えぬいた末、散乱光線を何本も描き、見事に間違ったこと、6年間で最低点だったテストの科目が理科だったことです。理科はどちらかといえば苦手でした。それが、中学1年生の時、隣に座ったK君が小学校時代「理科博士」と呼ばれていたくらい理科の知識が豊富で、K君にすっかり感化され、私も理科に興味を持つようになり、当時の理科少年の常で、「湯川・朝永・アインシュタインのような理論物理学者になりたい」とあこがれて、勉強するようになりました。理論物理学は自然界を統べる真理の研究を、お金がなくても紙と鉛筆さえあればできる、かっこいい学問だと思っていました。「よい教師は心に火をつける」と言いますが、蓋し、私の場合はK君がよい教師でした。
2 孤独を友に、自分の頭で考えながらコツコツ勉強する(=独創性の源)
念願かなって1978年に京都大学理学部に入学。入学式の時、京大総長から「京大は研究者を養成する大学である。研究者になるためには孤独を友とし、孤独を飼いならす覚悟を持て」という心構えを教えられ、理学部のガイダンスでは、世界的に有名な数学教授(後で知った)から「授業を聴いたからといって勉強したつもりになるな。自分の頭で考えることが大切だ」と諭されました。「どちらも当たり前だ」と自信をもって答えられる人は研究者の素質が有ると思います。(≠「自信をもって答えられない人は研究者の素質がない」に注意して下さい。)
1年留年して1983年、大学院理学研究科物理第一専攻の物性理論に進学しました。物性理論は4つの研究室(講座)からなる大講座でした。私が入った研究室の研究分野は、物性基礎論・非線形動力学で、当時流行の「カオス」を研究していました。研究室の方針は、新入生には本格的な研究を始める前に基礎的な本(洋書)を一冊与えて独習させるというもので、私は「非平衡統計力学」の本を与えられました。この本で、多体系のニュートンの運動法則からボルツマン方程式などの流体力学的方程式を導出するformalismをマスターしました。講義はほとんどなく、物性理論の同級生4人と輪講、週一回の研究室のセミナー・昼食会での論文紹介、研究発表会、あとは、ひたすら独学でした。カオスについて体系だった講義はなく、セミナーや論文で勉強しました。
ここでカオスについてざっと説明しておきます。17世紀、ニュートンは著書「プリンキピア」で、天界の運動と地上の運動はひとつの法則によって統一的に説明できることを証明しました。物体の普遍的な運動法則を発見したニュートンの成功は、(今でも多くの若者が科学の世界にあこがれるきっかけとなっていることも含めて)その後の科学・技術の発展の原動力になっています。ニュートンの運動法則は、物体の初期の位置や速度を知ればその後の未来は永遠に予測できる、いわゆる決定論的な法則で、偶然の入る余地はないと、長い間信じられていました。しかし、位置や速度などの値(正確に言うならば物理量。身近な例では、起床時刻や味噌汁の塩分濃度etc.)は無限の精度では決められません。実は、最初の状態の数値がわずかに異なる二つの場合(例えば小数点以下20けた目の位の数だけ一方は3他方は4という二つの場合)を、ニュートンの運動法則に従って計算したとき、結果として得られる未来(例えば1時間後の未来)が二つの場合で劇的に変わり得ることがあります。これがカオスです。硬貨投げの裏表・サイコロの出目などカオスの例は身近にたくさんあります。計算機の能力の向上により数値計算で直接カオスを確認できるようになって初めて、カオスが注目されるようになりました。私が大学院に入学したのはこのような時期でした。
大学院2年生の修士論文のテーマは指導教官に与えられました。先輩や同級生に教えてもらいながら、初めて大型計算機センターの計算機を使いました。言うまでもないことですが、研究の醍醐味は「世界で自分しか知らない・やっていない」というワクワク感、すなわち、独創性にあります。私の修士論文は計算機に慣れるのに精一杯で、ただ言われるがまま計算した、面白みのないものでした。こんな状況で博士課程に進学しました。これはという独創的なアイディアが出ずに苦労しました。あっという間に2年が過ぎたように思います。この間に、指導教授の交代・指導教官の転勤などもあり、前述の大学入学式での総長の言葉がよりいっそう身にしみていた頃でした。
3 ふつうの人が気にもかけないこと(常識)に疑問をもつ
博士課程3年目になって、基礎物理学研究所の研究会で、ひょっとしてこれはものになるかも、というアイディアを得ました。博士課程進学後も「非平衡統計力学」の延長にある、古典力学における統計力学の基礎付けに興味があり、論文を読んだりして勉強していたのですが、その勉強があったからこそ得たアイディアでした。とりあえず数値実験してみると予想通りの結果が得られたので、最終的に単著の第一論文として公表することができました。この経験から、コツコツ自ら考えながら勉強し、ふつうの人が気にもかけないようなこと(常識)に疑問を持つこと、そして、必ずしも成果につながらなくても、何はともあれ計算(数値実験)してみることが大事だとわかりました。こうしてひとつの壁を突き抜けてからは、アイディアも湧くようになり、研究の醍醐味も知ることができるようになったと思います。
第一論文の結果を非平衡統計力学のアナロジーで説明できれば博士論文もクリアーできる、という目処もたちました。大学院重点化前でしたが、当時でも物理学の理論系は他分野に比べて就職先が少なく、就職できない博士課程修了者(「オーバードクター」と呼ばれていた)が多くいました。博士号を取得すると博士課程に在籍できなくなり大学での居場所を失うので、博士論文は就職先が決まったら提出することにして、(最大で6年間の)博士課程学生という身分を優先することが(当時は)できました。他分野の事情は知りませんが、「博士号は足の裏についた飯粒のようなもので、取らなくても歩ける。でも取らないと気になる」という代物でした。私の場合は博士課程6年目の春、山梨医科大学から就職の話があって就職し、博士論文を提出し、博士号を取得しました。博士論文では失敗もありました。専門的になりますが、博士論文に加えた熱伝導の数値実験で、表面での温度が熱伝導方程式の解とわずか異なっている点に気がついたのですが、扱ったモデルに特異的なことだろうと思い放ってしまいました。現実の物質表面で同じ実験事実が発見されたことを後になって知り、勝手な思い込みをしたことに後悔しました。
以上就職までの経緯を記しました。その後については、研究者としての一生を振り返るにはまだ早いので、ここで筆を置きます。
(著者近影)