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「存在意義を求めて」

佐藤 弥

地域医療学講座 (2014年4月)

はじめは小児科
 昭和58年に秋田大学を卒業し、卒業した大学の小児科に入局した。いわゆる研修期間(当時は研修が必修ではない)で、先天性代謝異常、小児血液、新生児の各グループと3つの地域病院での研修を行った。最初に地域病院で行った研修時に、「おまえの説明は医師の会話ではない」「おまえの診療した所見は信用できないので、検査結果のみを信用する」と言われて、衝撃とともに変に納得した自分がいたことを覚えている。その指導医は、私の尊敬する小児科医2名のうちのひとりである。ここで臨床の厳しさとおもしろさ、そして医師としての姿勢を学んだと思っている。
 大学病院での診療では、新生児グループに所属し750~1000gくらいの超未熟児を管理していた。たまたま、当時の助教授(のち教授)の専門が先天性代謝異常であり、だれもそれを専門にしていこうとしていなかったが、素直に「かわいそう」と思い、とりあえずニーマンピック病患者の線維芽細胞を用い酵素活性の測定を一緒に指導して行わせていただき、このときから先天性代謝異常を専門として行うことになった。
何もかも知らないことばかりだったので、生化学の基礎をどこかで学ばせて欲しいと「お願い」することになってしまった。せっかくなので当時MELASの家系がおり、ミトコンドリア電子伝達系の酵素活性の測定をしなければならなくなったことから、名古屋大学医学部生化学第二講座(当時、小澤高将教授)の研究室に国内留学させていただいた。生化学教室で電子伝達系の蛋白分析や酵素活性の測定などを行い、生化学実験の基礎を学ぶことができた。当時、ミトコンドリアDNAの分析がPCRを用いて活発に行われるようになってきたので、ミトコンドリアDNAの分析(Deletion、Direct sequence)を“勝手に”やらせていただいた。なにしろ基礎の教室なので、一日中実験ができたので、3~4種の実験を平行して毎日行っていた。おかげで、データは非常にたくさんでたが、異常なデータの解釈ができずにいた時に、当時の教室の助教授が「このデータでいい、たくさんあってもいい」など、まるでSF作家のような解釈をされたことで、自分はとてもこのような発想は無理と感じ、基礎の「すごさ」を見せつけられた気がしたものである。
 秋田大学に戻り、本格的に先天性代謝異常を専門として診療と研究を開始した。なんとしても、「made in Akita」の論文をと、東北大学から移られた講師(のちに山形大学小児科教授)とともに、研究にのめり込んでいった。先天性代謝異常の確定診断は、当時酵素活性が必須であり、測定系を確立しながら診断していった。先天性代謝異常の患者さんは、決して多くないはずだが、フェニールケトン尿症2名、ホモシスチン尿症2名、ゴーシェ病、ウイルソン病、メンケス病、ムコ多糖症、ミトコンドリア脳筋症(MELAS)など、小児科医でも一生巡り会うことのない初発の患者さんたちを、数多く診療することになった。診断も重要だが、多くは遺伝性疾患のため、両親や兄弟などのカウンセリングに加え、全身臓器に症状がでるため、結果的に、小児専門領域の多くを勉強しながら対応することとなった。新生児といい、先天性代謝異常といい、結果的に全身を対象にひとりの人間として総合的に診療することを求められることとなった。
 小児固形腫瘍を専門に担当するグループがなかったこともあり、小児固形腫瘍患者を担当した時期でもあった。ただし、多くは残念な結果となったが、患者が全身転移で亡くなった際に、その母親から「大学病院なのだから、解剖しなければならないのでしょう」と言われたときは、申し訳ない気持ちを持ちながら、感謝したことを憶えている。

オーダリングシステムと医療情報部
 平成5年に、秋田大学医学部附属病院でオーダリングシステムが導入されることとなり、小児科の処方は細かいから処方オーダ画面を作成する担当となった。その後、5人くらいいた医師の担当者がひとり、またひとりといなくなり、結局1年後には協力医師のうちひとりだけ担当として残されていた。2年ぐらい、小児科と医療情報システム担当を掛け持ちしていたが、その後小児科を「追い出され(笑)」どこか病院に勤めるかな、と思ったところ、病院長が病院助手のポストを用意し、学内措置で医療情報部を作り副部長で継続することになった。平成10年度のシステム更新の最中に、山梨医科大学の医療情報部長となることができ、みずしらずの山梨県、山梨医科大学に平成11年4月に着任することになった。
 山梨医科大学では、優秀な事務職員がおり、自分の役割をさがす時期となった。もちろん電子カルテの導入は必須事項であったが、今も昔もシステムに対する風当たりは激しく、結局ほぼ完全な電子カルテの稼働までに2回のシステム更新が必要となった。病院情報システムは非常に大がかりで複雑なものであり、システムを作ることはもちろんできず、導入対策も医療情報室員が苦労して対応してくれた。自分の役割があるのかと感じたが、システムで蓄積されたデータを病院運営に役立てることに意義があると考えた。塚原病院長の時に、部門別評価を行う科学研究があり、そのひとつとして病院の各部門の収支分析を行うこととなった。収支の基本は診療科単位で行うことがほとんどであり、当時でははじめて、看護部や栄養管理部、手術部などの部門の収支も算出してみた。看護部の収入が約16億円と算出して喜ばれたが、支出はそれ以上であることには何も反応がなかった。収支だけではなく、医療の質の評価を行えないか、と考えはじめ、病名を基本に比較できないかを考えはじめたのもこの頃である。この取り組みから、ICDコーディング、そしてDPC導入に繋がった。

病院経営管理部
 電子カルテも多くの不満を抱えながら、わずかながら使用が拡大してくる流れとなっていた。あらためて、病院情報システムのデータ活用を病院運営に活用する必要があると考えるようになった。大学の法人化した平成16年4月に、正式に病院経営管理部を設置し、企画系の事務と一緒に、病院長の戦略部門として活動することとなった。病院経営管理部の業務・能力として、以下のようなことを考えていた。
•直接診療以外の病院診療のすべてに関連
•基本的に前例のないことを企画し実行する
•医師を中心とする診療業務内容と病院管理上の事務業務内容を理解する能力が必要
•国の保険医療政策に基づく、“地域の”医療現実的な実施方法・方針の企画または対応能力が必要
•情報収集・病院運営方法の企画集団
 病院経営・運営が業務となった。山梨大学においては、臨床医としてはほとんど活動せず、医療機関、自治体や医師会などとの連携を推進することが役割となった。研究内容は病院運営改善策の企画・計画であり、その実践の場が大学病院である。いわゆる医学研究ではなく、経営学でもなく、実学としての病院管理学ということになる。救急部、血液内科の設置、医療福祉支援センターの立ち上げ、物流システムの構築、電子カルテの全面稼働などに関与し、病院経営管理部として、病院再開発事業、大学病院連携型医療人養成事業などに関わることとなった。病院経営のためには地域医療機関や医師会との関係を強化する必要があり、次の地域医療学講座の開設とあわせた活動を行うことになる。

地域医療学講座
 新臨床研修制度の開始とともに、地方の医師不足や医師の偏在が問題となったため、平成20年度から医学部定員の前倒し(定員増)を行うことになった。地域枠の設定に対し、奨学金の設定や条件について、山梨県と調整を行った。また、卒業生の大学病院での研修推進や地域医療に対する理解を持たせるため、学生時代に、さらに地域での実習が必要と考え、地域医療学講座を設置した。大学に卒業生が残らなければ、医師供給機能は低下し、地方の医療が維持できなくなることは明白である。医学科のカリキュラムの「間隙」をついて、1年次から4年次まで、毎年何らかの実習を組み込むこととした。3年次の24時間救急車同乗実習や4年次のフィールドワーク実習などは、特徴的な実習である。平成25年度の卒業生から、これらすべての実習を体験したことになった。実習の意味を理解できるのは、多分診療を行ってからだと思っている。

最後に
 卒業から現在まで、その時々の必要に応じて小児科、医療情報、病院経営管理、地域医療学と居場所を変えてきた。どの立場でもいえることだが、所属する組織や地域における存在意義をいつも考えて走り続けるべきと考えている。医師になって進む方向には、臨床医、研究医、技官などはあるが、私の方向は、どれにもあてはまらない。地域医療体制に貢献することのひとつに、医療マネジメントの職種が必要なものと考え、その存在意義がないと判断されないよう、これまでも、これからも活動していきたい。

(4年次実習「フィールド研究」ゼミの様子:中央に筆者)

 


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