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私のターニングポイント

久木山 清貴

内科学講座第2教室 (2011年8月)

 最近、若手医師の間で研究志向者が減り続けていることを心配しています。留学希望者も減っていると聞いており、若い医師の間では目先の臨床的なキャリアーにばかり目をとられ、自分の将来にリスクを取る事を恐れる傾向が強まっていることを残念に感じています。若い先生方には、不確かであってもごく少しでも可能性があれば勇気を持って飛び込んでみるぐらいのチャレンジ精神を振るっていただきたいと常々思っています。医学部学生時代、私自身は怠惰で、現在のような研究職になるなど夢にも考えたことはありませんでした。ただ、面白そうであればあとさきを考えずいつも新たな事に挑戦し続けていたと思います。若い人達を勇気づけるために、私のターニングポイントを書いてみます。私は1981年の熊本大学卒業ですが、1985年に熊大に循環器内科が創設された時、私は所属の第一内科循環器グループ長に誘われて循環器内科に移ることは決めていたものの、その当時、新設の小さい診療科ゆえに将来どのようになるのか見通しも全く立っておらず、移るにせよ大変な苦労になるだろうと言われていました。それでも何か新しいことが出来るに違いないと漠然と思い、もちろんポストなどなかったのですが大学院生として何とか新設の循環器内科にもぐり込むことにしました。大学院生といっても教室は新設されたばかりで、実験室もなく研究する時間もなく毎日臨床業務に追われていました。2年目になってから教授から心筋シンチグラフィーの臨床での研究テーマをいただきました。シンチの装置はあるものの、誰も心筋シンチなどしたことなく指導する人もおらず、テキストブックを買い論文を参考にまさしく見よう見まねでやったわけですが、何とか2年間で学位論文を完成することが出来ました。この経験で指導者がいなくとも新しく未知な分野も挑戦すれば独力で何とか道は開けるということがわかりました。大学院卒業後ポストもないために留学することになりました。米国の研究施設に手当たり次第、30箇所くらいにポスドクのアプライの手紙を書き、ボストンのMGHとヒューストンのベイラー大学が給料を出してくれるという返事でしたが、その当時最高峰のMGHよりも名前も知らなかったベイラーの方が自分にとってチャンスが多いのではと考えベイラーに行くことにしました。ただ渡米してからわかったのですが、やはりベイラーの心筋シンチのラボでは私が国内でやっていたレベル以上のことを学ぶものは何もありませんでした。そこで、帰国も考えたのですが折角渡米までしたからには手ぶらでは帰れないと思い、同じラボのフェローから聞いて面白いことをやっているという基礎研究のラボに1年目の途中で移籍しました。今考えると何と無謀なことであったかと思います。その時移籍の許可をいただいたcardiologyのチーフであったロバーツ教授には深く感謝しています。彼がその時私に言った「アメリカはチャンスの国だ。お前に一回だけチャンスを与えてやろう。ただ失敗したらすぐに日本に帰れ」と言う言葉は今でも耳に残っています。何の見込みもなく、しかも基礎実験に関しては全く経験も知識もなくピペットの持ち方も知らなく、さらに移籍したラボがグラントのリニューワルに失敗し研究費も乏しくテクニシャンも一人だけの有様でした。かなり苦労をしましたが、幸いにも一つ論文をまとめることができました。帰国後、留学時の研究を基盤として帰国後も成果を出し続けることができました。卒業当時はまさか研究者になるとは想像もしていませんでしたが、以降研究することの面白さに目覚め、今日に至っている次第です。このように書くと、ただ運に恵まれてきただけではないかと思われてしまいますが、一つだけ言えば、何か新しいこと面白いと思うことに対して、研究環境や自分自身の能力にとらわれず無謀と思われてもトライし続けてきたことが今日につながっているということです。信念を持ち続け努力していけば例え困難な状況でも必ず道は開けると思います。医学部学生や若手医師にも常々言っていますが、リサーチマインドを持った優れた臨床医になるために、若い時にせめて数年間は研究に没頭する経験を積む必要があるのです。そうでなければ日本の医学研究にブレークスルー的な発見は見込めないのではないかと心配しています。 

 


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