先日、NHKの番組で水泳の北島康介選手の特集をやっていた。北島選手は、アテネ、北京のオリンピックで金メダルをとったあと、“燃え尽き症候群”になり、人生の目標を見失いアメリカでしばらくぼんやりしていたらしい。その後「水泳」に再び戻って、新しい挑戦をはじめるまでの過程を番組は追っていた。
北島選手が「水泳」にもどるきっかけの1つは、アメリカの大学水泳部と一緒に行う練習だった。番組を見ていると、アメリカのコーチはアバウトで、腕の掻き方や足の蹴り方などの細かい指示をほとんどださない。選手の“のり”を一番にして、“もっと強く(足を蹴れ)とか速く(泳げ)”とか当たり前のことをいって要所要所で気持ちをエンカレッジするだけである。細かいことや問題点は選手が自分で考えて解決するのである。もう1つの練習の特徴は、メニューが豊富で選手が飽きないように工夫されていることだった。コーチは“I am Disney Land.”とか言って笑っていた。水泳の練習ほど退屈なものはないので様々な仕掛けをしているということだった。対照的に、日本での練習は、コンピューターを使って泳ぎを解析し、体の使い方の細かい点を修正し、理想の泳ぎを追究するというとてもストイックなやり方であった。このやり方には自分の感情は入らない。北島選手はアメリカのやり方で本来の水泳の楽しさを思い出し、気持ちが再生したのだった
実のところ “研究”でもまったく同じようなことが起きていると思う。欧米と違い、日本の研究者はただの“仕事”として“研究”をしている場合が多い。また論文を出すことや出世が一義的な目標になっている人も少なからずいて、Natureに出したり、教授になったりすると燃え尽きてしまうこともある。“水の中で泳ぐことは楽しい”というような原点が、日本で研究していると忘れがちになる。とにかく、研究は、一種の“冒険”であり、未知の世界を切り開くことへの喜びと興奮が原点である。“自分の見たことのない景色を見たい”という自発的に湧いてくる衝動に突き動かされて実験するのである。もちろん欧米の研究者にも義務的に研究をしている人が実際にはいっぱいいると思うけれど、日本の社会は、このような「研究」の本質についてほとんど教育しないためにその欠陥が特に際立ってしまう。
それでは、この「気持ち」を保ち続け、研究者として燃え尽きないためにはどうしたらよいのだろう?まず、研究のテーマはどこかで聞いたようなものではなくて自由かつ大胆かつオリジナルに設定することがとても大事だと思う。日本では研究者はあるテーマの派生に集まることが多く、この点は特に注意が必要な気がする。また実験は多くの場合、水泳のように単調で退屈なので、飽きないためにはワクワクドキドキしながら結果が待てる実験とそうでない実験を適度に混ぜ合わせる日常的な工夫が肝要だ。さらに、より自由で多くの視点を得るために教授も大学院生も対等にアイデアやデータについて実験のディテイルから哲学的なことまであらゆるレベルで議論したほうがよい。そして「研究」へのモチベーションを保ち続けるために最も重要なことは、研究成果が社会を変えることにつながるポテンシャルをもった夢のあるものでなくてはならないことである。生物学や医学における新しい興奮するようなチャレンジを目指すことが研究者の気持ちをドライブするもっともシンプルな方法だろう。
さて、研究者として生きていくうえでのこういう考え方の大事さをはっきりと僕に認識させてくれたのは、スウェーデン留学中にボスであるDr. Peter ten Dijkeが発した一言だった。当時、僕は、留学して1年間以上まともなデータが出ず苦しんでいたので、その後、ようやく得られてきた実験結果が嬉しくて、それをまとめ論文を自分で書いて彼のもとに持っていった。たぶん、焦りもあったと思う。そのとき僕は、得られた実験結果をそつなく並べ、ちょっとだけ新しいことを言うような日本の(少しできる)研究者にありがちな事務的な論文を書いていた。Peterは、一言、“This paper lacks excitement.”
と言ってその論文を却下した。その後、Peterの指示に従い、新しい実験を重ね、その結果をもとに文章を大幅に書き直し、より価値を高めた魅力的な論文に変貌させると、Natureにアクセプトされた。その瞬間、自分の「研究」に対する価値観が変わった。それは、「研究」は決して無味乾燥な論理性だけで成り立つものではなく「気持ち」を込めてやるもっと豊かなものなんだ、ということだった。
日本にいると、「水泳」や「研究」だけでなく、「勉強」や「政治」や「行政」や「法律」や「外交」や「野球」や「サッカー」や、あと「大学」も本来の原点や目的からどんどん離れていって詰まらない手続きやルーチンだけの世界になっていく。どうしてこうなるのかはよくわからないが、社会に何か原点をスポイルするような圧力があるのだと思う。いずれにせよ、いま楽しくハッピーに実験をしていない教官や大学院生や特進コースの学生は、このような日本的な圧力を振り払い、即刻考えを改め、自身の状況を反省したほうがいい。もし、まったく自身の研究に面白みを見いだせないならば、テーマやあるいは進路を変えることも必要だろう。また今論文を投稿準備中の人はその論文が“魅力的”かどうか俯瞰してみるのも論文の価値や文章表現の是非をはかるよいチェックポイントになると思うし、なによりこれから研究者を目指す若者は、自分が本当に強いモチベーションを持てて社会的にも真に意義があるドキドキするような研究テーマを見つけて取り組んで欲しい。
「未知の世界を切り開き、人類の進歩に貢献するのは楽しい」から世界中で“研究”(サイエンス)は日夜行われ続けているのだと思う。労苦だけでは人間は物事を長くは続けられず手近な目標が達成されれば燃え尽きてしまう。Excitementを求めることが、研究で(たぶん)最も大切なことである。逆に言えば、Excitementが得られない研究は「研究」ではない。「研究」は“楽しい”からやるのだ。そしてこんな子供の遊びのような贅沢な職業が許容される豊かな社会に住んでいる特権について僕らはもっと感謝しないといけないし、それ故にその目指す成果は、決して自己満足的なものではなく社会と共有できるものでなくてはならないと思う。
スウェーデン留学中(1995-1997) Dr. Peter ten Dijkeの家族と僕の家族