職業や研究テーマの決定には“運”、つまり、よき師との出会い、たまたま読んだ本、子供の時のたわいのない体験、時代などなどが、想像以上に大きく関与しているものだと思う。この“運”を動かしていくものこそが、当たり前のことだが、研究に対する思い、情熱なのだと思う。
私の医学部卒業後のスタートは整形外科医だった。まさに、実学の世界である。自ら手を動かして物を作り上げるのは好きだった。世間知らずの私は何も考えず、そのまま大学院に進学した。が、そこは研究者の夢の仕事場などではなく、臨床医学以上の実学の世界であった。研究のための金、金のための研究、フリカケを変えただけの実験、フリカケとご飯の種類の掛け算で論文が多産され、あげく、多産された論文の“数”の競い合い。数こそ膨大ながら矮小なデータ群は、その目的を見失わないために“いつか医学の役に立つ”という接頭語が常についていた。結局、自分はロクな結果を出さずに大学院を卒業した。
なにか、世の中の役に立たないことがしたいと切望していた。
カニは横に歩きながらも、自らの進む方向に前進している。タコにいたっては、どこが前向きなのかも定かでないまま「前進」している。
大学院生活が終わりに近づく頃、解剖学第一講座に百々幸雄教授が着任された。なんでも人類学がご専門らしい、縄文人の研究をしているらしいと聞いた。この殺伐とした医学部に、こういう研究をして生きている人がいるのかと驚いた。世の中の役に立たず、でも自分がおもしろいと思えるこの学問を仕事にしようと思った。これこそが、運なのだと思う。今にして思えば、研究とは本来、おもしろいからするものなのだと思う。
しかしながら、公費でこんな研究を続けることは究極の贅沢である。研究の場を得るためには、世間の人々も“もっと知りたい”と共感できる研究成果を示さなくてはいけない。骨学的研究を発展させ、古人骨由来のDNAを調べ、人類の移動を検証しようという壮大なテーマに取り組むことになった。当時、PCR法を応用したDNA鑑定は緒に就いたばかりであった。このため、陳旧・微量のDNA解析法を確立するべく、法医学教室に所属することになった。
ところが、法医学教室の匂坂 馨教授からは、当然といえば当然だが、法医解剖をするようにシフトが割り振られていた。実学から離れるつもりが、何故?と自問する間もなく年間100体を優に超える法医解剖業務が待っていた。これも運だったのだと思う。当初は、親子鑑定の業務を行いながら、履き古した靴の中敷き、歯ブラシ、はたまた多数の人が共用するスリッパなどからひたすらDNAを抽出、鑑定技術を磨いた。これらの技術は現在も犯罪捜査現場に応用されている。
技術的には陳旧・微量試料からのDNA解析は可能となったため、第1解剖学に戻った。この時、匂坂教授は「安達君は、あんな研究で食べていけるのか?」と大変心配されていたと後から聞いた。いよいよ縄文人(=死後数千年たった白骨死体)についてのDNA解析をすることになった。しかし、相手は犯罪死体ではなく文化財であり、簡単に骨をすりつぶすというわけにはいかなかった。結局、慎重に抜歯の上、歯髄を削り、残った歯をもとに戻す(つまり人骨に見掛け上の変化はない)手技を開発し、さらに系統分類上重要性の高い遺伝子変異を複数同時解析する方法を開発することで、試料の利用可能性および研究精度が飛躍的に高まった。
その後、縁あって山梨大学に赴任した。匂坂教授の心配通り、古人骨研究だけで口を糊することはできず、法医解剖で禄を食むことになった。が、“あんな”研究も北日本に関しては縄文人のルーツについてほぼ、結果がまとまった。先日行われた大型科研費の結果報告会では200人収容の会場で立ち見が出るほどの盛況ぶりであり、NHKでも放送された。新大陸へと渡った人類の足跡を知るためにカナダとの共同研究もはじまった。“もっと知りたい”気持を、少しは満足させることができたと思っている。
この研究を続けていると、実に多くの分野の人たち(考古学者、アイヌ文化研究者、昆虫学者、古代環境の専門家、キノコ専門家などなど)と出会うことになる。彼らをみていると、また、我が身を振り返ってみても、お金にはならないが自分が面白いと思う研究、多くの人の知的好奇心を満足させる研究を続けるのは、つくづく大変だと思う。
カニは横に歩きながらも、自らの進む方向に前進している。タコにいたっては、どこが前向きなのかも定かでないまま「前進」している。
私も、このように生きていきたいと思う。
人類学と出会った大学院終わり頃。「前向き」です。